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機動戦士ガンダムSEED DESTINY 内容整理

■はじめに

さてさて、最終回も終わり、いろいろな意味で沈静化しつつあるDESTINY。1年間、視聴に感想に楽しませてもらいましたが、一つの区切りとしてまとめ感想あげんと収まり悪いんで、ざっくりと。のわりには内容整理も加わって長くなっていますけど、具体的な内容を踏まえんと説得力がなくなるんで入れておきます。

と思ってはじめたのですが、感想と内容整理を同時に進めるのが難しかったので、分けました。50話ある話の内容を整理しながら感想も書いてくと、とんでもないボリュームになるわ、内容整理と感想の境界がテキトーになるわ、文章全体の順序だてがメチャクチャになるわで、ろくでもない出来になったもんで。ですんで、まずは内容整理から入り、その後でウダウダ言いつらねる形にしてみました。


■価値観の相対化

話を追いかける上でのポイントはこれだったかな。スタートラインからして、前作で(一応の)正義とされた旧主人公たちのカウンター的存在として、正義のための種まきとされていたオーブ自爆(正確にはオーブ自爆にまつわる攻防)の犠牲となったシンを主人公に据えていますし。

5話でシンが「俺の家族は、アスハに殺されたんだ」「この国の正義を貫くって、あんた達だってあの時、自分たちのその言葉で、誰が死ぬことになるのかちゃんと考えたのかよ!」と言い放ち、8話ラストでは「前作的正義の中心にいたキラ&ラクスに背を向けるシンの図」が描かれていますが、まさに前作的正義へのカウンターがシンだったわけですね。そうして、序章段階で相反した二つの「正義」が、第2クール以降、ネガポジ両面を描かれながら、善悪の価値観をシャッフルされていった、というのが物語の骨格部分でしょう。


■旧主人公サイド

旧主人公サイド(アスラン以外)については、前作で是とされ、ポジティブな側面が強調されていた「カテゴリー依存からの脱却」を裏返して、ネガティブな側面として「カテゴリーを無視して大義もビジョンもないままに戦場を混乱させる」という側面が描かれたわけで。

象徴的なのは、14話の花嫁強奪→海中深く潜行していくAA発進シーン、23話ラストの黒煙をあげる戦場跡、24話冒頭の死体袋の山とハイネ出棺、28話でアスランセイバーを粉砕したフリーダムのダークな表情あたりかな。あきらかにマイナス演出でしょう。んで、正しい道を探しながらも見つからず、無軌道に暴走した結果、ミネルバサイドからボコスカ批判されたり31話で自らショボーンしたりした挙句、今まで積み重ねてきた咎の応報分として、シンというカウンター的存在の手で討たれる結果に。カガリが為政者としての「役割」を放棄した分も、トダカさん他オーブ軍兵士の死という形に落とし込まれていますね。


■新主人公サイド

一方、新主人公サイド(と言うにはアレなんて「議長サイド」「ミネルバサイド」あたりが妥当かな?)については、前作で非とされた「カテゴリー」に従属する存在として登場し、ポジティブな側面として「カテゴリーに従って任務を全うし、悪辣非道な連合やロゴスを打ち倒して平和をかち取っていく」という姿が描かれたわけで。

16話の基地解放や18話の拠点攻略、ヘブンズベース攻略、40話の勲章授与、月基地攻略。このあたりが典型ですが、こうしてポジティブな側面を描かれた「カテゴリーへの従属」というファクターが、テーマ的に「役割」という概念に置き換えられ、終盤で明かされたデスティニープランへと落とし込まれて、議長サイドの正しさを示す形になっているという。

と同時に、その「役割」を偏重しすぎて、役割を全うしない者を淘汰したり、役割を全うするためには死をも強要したりと、個人の自我や生命を奪ってしまうネガティブな側面も描かれているのもポイントかな。前半では13話のラクス襲撃、後半ではアスラン追討やオーブ攻撃未遂(49〜50話)、最終話での自軍を巻きこんでのジェネシス発射あたりが典型例。34話のAA襲撃や40話のオーブ攻撃も、表向きの大義として示された「テロリストやジブリールを討つ」という目的以外に、デスティニープラン宣言後に「役割」を受け入れないであろう勢力の事前排除という裏の狙いも感じさせます。このあたりが議長サイドのネガティブな側面でしょうね。


■アスラン

そうして二つの「正義」がネガポジ両面を晒す中で、それぞれの間をフラフラするキャラとして、回想王が抜擢(?)されたわけで。振り返ってみると、カガリのSPという「力」「役割」ポジション、アスラン・ザラという個人の想いに蓋をしたアレックス・ディノという「偽り」ポジションからスタート。3話ラストで議長のツッコミを受け、アスラン・ザラ個人の「真」の想いに立ち返るも、ユニウス7攻防戦では力不足ゆえに返り討ち。その後、想いを果たすべくプラントへ赴くも、焦りすぎて「想い」に蓋をしてしまい、戦士という「役割」をベースに再起動。

んで、ミネルバへ。そこでの「役割」を果たす中で、議長サイドの正しさに共感をおぼえつつ、そんな議長サイドの正義遂行を阻害するキラたちの言動に不信感をおぼえつつ。んが、オーブとの戦闘&ラクス襲撃の報&キラ撃墜ショックによって議長的正義への疑念が膨らんでいき、36話では前言を撤回するような議長の「役割」偏重トークを受け、とどめの拘束未遂をきっかけに脱走。結局は議長サイドの正義を信奉するシン&レイに討たれ、そのネガティブな側面を身をもって知ったというわけで。


■相対化された価値観の着地

価値観が相対化された、どちらも正しくあり、どちらも正しくなく、みたいな状況。登場人物に対して、そして視聴者に対して「なにが正しいのさ?」と問いかける形へと相成った物語。そうなると、旧主人公サイドと議長サイドの間をフラフラし、その過程で両者のネガポジ両側面を知ったアスランが、その上でどんな道を選ぶかが、価値観相対化ネタのゴールであり、キラ(旧主人公サイド)&シン(議長サイド)&アスラン(両者間をフラフラ)の三主人公を配した三軸物語のクライマックスでしょ。

それを〆たのが、42話&46話のラクスの言葉。アスランの「君も、俺はただ戦士でしかないと、そう言いたいのか」という疑いの言葉に、ミーアの「私がラクス、なにが悪いの!」という頑なな言葉に、ラクスの「それを決めるのも、あなたですわ」「あなたの夢はあなたのものでしょう」という「言葉」が炸裂。

役割を全うするのも、自由を貫くのも、真実を重んずるのも、偽りを受け入れるのも、選ぶのは、あなただと。どちらが「正しい」のでもなく、どちらが「間違っている」のでもなく、それぞれの価値観を知った上で、どちらを選ぶか、それを自分で考え、自分で決めることが「大切」なんだよと。

そんな言葉が、前作8話の「あなたが優しいのはあなただからでしょう」以来、常に個であることを大切にしてきたラクスの口から炸裂し、無事ゴールイン。民全体への啓蒙ではありませんが、個人レベルの着地点として、問題提起に対する解が示された瞬間でしょう。40話かけて「どちらも正しくあり、どちらも正しくない」と価値観を相対化させてきた分のタメが解放され、ストレス→カタルシスの基本文法どおりに「燃え」をアピってくれました。裏を返すと、前作の「私はラクス・クラインですわ、キラ・ヤマト」と同様、それまでの前フリ(今作では価値観の相対化、前作ではカテゴリーの無化&個人への立ち返り)をスルーしていると、言葉の真意を理解することができないまま、ただ「電波」としてしか見えないんですけどね。


■三軸物語→一人の主人公を取りまく二つの価値観物語

そうして個人レベルでの着地が決まり、あとは民全体&視聴者に向けての啓蒙と、それをきっかけとした覚醒が、残り数話の課題として残ったわけで。それが、シンという「民(&視聴者)を象徴する存在」を通じて描かれた(というか描かれなかった)のが、47〜50話。

それまで旧主人公サイドと議長サイドの間でフラフラしていたアスランが、進む道を自ら選んだ結果、旧主人公サイドに復帰。と同時に、今度はアスランやメイリンを撃ったことを割り切れないでいるシンが、旧主人公サイドと議長サイドの狭間に。そんなシンを、同じような状況の中で自ら進む道を選択した先輩としてアスランが啓発し、最終的にシンの「選択」まで進んでいく(正確には選択する直前で終了)、という流れになっていたわけですね。

んで、議長&レイによる議長サイドの正義アピール、ルナとの関係、アスラン先生の自己啓発セミナーを経た上で、ステラたんとの邂逅(個人的にはあれはシンの潜在意識の塊みたいなもんだと思いますけど)によって、儚く散った者たちの本当の願いに、そして、自分自身の本当の想いに、シンは気づいたという。その上で、怒りフィルターを外したシンの眼に映った光景は、虚空に轟く真の鎮魂歌、明日を象徴する月の聖母、そして、崩れゆく救世主。それを見たシンは、ただ涙するのみで、彼が最終的に何を選んだかは、明示されないままに閉幕。

本当の鎮魂歌が轟く中、それまで無意識に目をそむけてきた死者の本当の想いを知ったシンが、なにを考え、その後どんな一歩を踏み出したかは、それまでシンが思考を委ねてきた救世主の消滅とともに、それこそ各視聴者が考え、それぞれが「選ぶ」べき答えとして、描かずに閉じたという終わり方でした。それが「価値観の相対化→どちらも正しくどちらも間違い→何を是とするかは個人個人が決めればいい」と説いてきたDESTINYの帰結だったというわけですね。


■相対化された価値観

そんな価値観相対化テーマですが、具体的に相対化された価値観としては、目につく所で「真と偽」「想いと力(役割)」「自立と依存」「意志と諦観」といった互いに対立するファクターが挙げられるような(話を振り返ってみると、議長やレイの「仕方ないだろう」な諦観促進トークの多かったこと多かったこと)。さらに、例えば「言葉」「技術」といったファクターについても、啓発や革新につながるポジな側面と、盲従や暴走につながるネガな側面とが描かれて、そこでも価値観が相対化されていたでしょう。

他にも、シンの幼児性が純粋さと表裏一体だったり、戦果や功労を讃える勲章が権威主義(?)的な側面をもっていたりと、小ネタレベルでも相対化されたファクターは幾つかあるようで。このあたり、もう一度見直してみれば新しいファクターが見つかるかもしれませんね。


■もう一つの文脈

そういった具合に価値観が相対化され、相異なるスタンスを否定しあう戦いへと雪崩れこんだわけですが、そんな自分と異なる立ち位置を自分本位に否定してしまう人間のエゴを、戦争(争い)の一つの原因として描いているんでしょうね。それが、クルーゼの「正義と信じ、わからぬと逃げ、知らず、引かず!」だったりして、もう一つの文脈において変態仮面閣下が再登場する罠。

逆に、ロゴスを通じて描かれた戦争を煽る外部の存在について見てみると、ラクスの「悪いのは彼ら、世界。あなたではないのだと語られる言葉の罠に、どうか陥らないでください」発言や、議長の「常に存在する最大の敵、それは、いつになっても克服できない、我ら自身の無知と欲望だということを」発言に象徴されるような、人間内部の問題に気づかせないためのミスリードも兼ねていたわけで。それまでの話で、ロゴスのように戦争を自らの利得につなげる存在を描き、そういった存在が戦争を煽るんだ、そいつらを倒せば平和になるんだ、と思考を誘導した上で、実はそれだけでなく、もう一つの、そして最大の問題があるのだと、最後にひっくり返す。そんな長期構成になっていたわけですね。

その意味では、ロゴスは裏から戦争を煽る存在の一例にすぎないんで、そんな存在をタップリ描く必要はあまりなく(余裕があるなら描いた方がモアベターですけど)、むしろ、自分の目線からのみ物を見たり考えたりする各登場人物の姿を重点的に描くべきだったかと。

その点、シンの目線で前大戦を語らせた20話や、ミーアの目線でアスランやラクスを語らせた47話をはじめとして、自分の理屈で戦場を混乱させたキラ一味の言動や、自分正義のためには躊躇いもなく敵を滅殺していくシンの姿が描かれていたりして。小ネタレベルでも、アスランとラクスの婚約破棄を知らずに進んだ女難ネタ、ステラをディオキア市民だと勘違いしたシン、アスランとミーアの関係を誤解したルナ、アスラン来訪を聞いて喜んだカガリ、ハイネの死をキラだけのせいだと思い込んだシン、といったところが挙げられるかな。ザラ議長の言葉を自分勝手に解釈したサトー隊長、17~18話でアスランの言葉の真意を汲めなかったシン。このあたりも「自分解釈」「自分正義」ネタの重要箇所でしょう。また、最終話において、それまで死者の想いを「自分解釈」して「自分正義」を掲げてきたシンが、ステラとの邂逅(?)の後に宙へと立ち昇る本当のレクイエムを見て自分フィルターを外すことができたというのは、そういったネガティブ描写の解消シーンになっているんじゃないかな。


■正義と信じ、わからぬと逃げ、知らず、引かず!

そうして、戦場において「自分解釈」「自分正義」がぶつかりあうというか、逆に「自分解釈」「自分正義」のぶつかりあった場所が戦場になるというか。前作最終話では、キレイ事を言いながらも力によってクルーゼを討つしかなかったキラ。それを見たクルーゼは嘲笑じみた顔で消えていったのですが、案の定、今作のキラは同じ轍を踏みまくり。というか、キラに限らず、全ての登場人物が、自分正義を掲げながら異なる正義を討つべく戦いまくり。まさに「正義と信じ、わからぬと逃げ、知らず、引かず!」なんですよね。ジハードってるというか。

そして、8話で「いくら綺麗に花が咲いても、人はまた吹き飛ばす」と語って変態仮面の再来を思わせたシンが、34話でキラを討ち、キラは「その果ての終局」を体験することになるわけで。


■止める術

まず「正義と信じ、わからぬと逃げ、知らず、引かず!」があり、次に「その果ての終局」が来たので、あとは「もはや止める術などない」ことが示されれば、変態仮面閣下の大勝利。なのですが、それに対して二つの道が示されたのが、最終クールでしょう。

議長サイドから掲げられたものはデスティニープラン。相異なる正義が衝突しあうのが問題だというのなら、正義を一元化してしまえばいい。異分子は淘汰、調整。そんな計画ですね。んで、一元的な価値観の源に「遺伝子」をベースとした「役割」が据えられ、各自が己の「力」に見合った「役割」を果たした結果、ロゴス打倒という「幸せ」な結末へとつながり、議長サイドの正当性を示す形に。加えて、49&50話のレイの語りにより、人の「想い」が招いた罪の象徴としてレイの真実が晒され、デスティニープランによる去勢手術の必要性をアピール。

一方、旧主人公サイドが示したものは、相互理解の可能性+具体的には無策。一度はマジで殺りあったキラ&アスランでさえ理解しあえたのだから、今すぐには理解しあえなくとも、いずれ理解しあえるようになるはずだ。そんな夢想ですね。シンに倒されて海中に沈んでいくキラをカガリが助けたり、凹んだキラを皆がヘルプして宇宙へと打ち上げたり、シン&レイに討たれそうになったキラをアスランが助けたり、ミーアが身を挺してラクスをかばったり。最終的には、イザーク&ディアッカペアによる支援、ムネオの記憶復活と、49話で方向性が定まった形かな。


■三つ巴

そんな具合に終盤の49〜50話で二つの正義が均衡するも、旧主人公サイドは結局「正義と信じ、わからぬと逃げ、知らず、引かず!」なクルーゼ人間観を否定することはできず、相異なる正義を抱く相手に対して銃口を向けることしかできなかったわけで。この時点では、クルーゼもしくはデュランダルの言い分が勝っていたかな。やっぱ相互理解なんて無理だぜ!と実証しているようなもんなんで。クルーゼとデュランダルを比べるなら、去勢手術を施しさえすれば争うことはなくなり、クルーゼの終末予言は崩れるので、デュランダルの勝ち(?)でしょう。

がしかし、そんなデュランダル理論も、誰よりもデュランダル理論を信奉していたレイが「自我(想い)」を抱いてデュランダルを撃ったことで、去勢手術を施しても人は「想い」を抱くものだと証明する形になったわけで。そりゃデュランダルも「そうかぁ…」と言う罠。また、旧主人公サイドはと言うと、トンズラーしていた前作ラスト〜今作冒頭とは違って「戦う」ことを宣言したあたりに成長を感じさせるも、具体的にどう戦うか、どうすれば理解しあえるのかの答えは、個人ベースはともかく人類規模では見えていないので、とても勝ち(?)とは言えない状況。

では、またしてもクルーゼの勝利かと言うと、クルーゼと同じポジションにいたレイが相互理解の可能性に気づいてしまったという結末。パッと見は「正義と信じ、わからぬと逃げ、知らず、引かず!」というのが人間ではあるものの、個人への立ち返り&相互理解という「止める術」の可能性も存在するため、必ずしも「その果ての終局」が訪れるとは限らないと示されたわけで。もちろん、人類規模ではなく個人レベルにおける気づきであり、また、レイもクルーゼとは違う人間なんで(byキラ「彼じゃない!」)、その結末が「人類規模で絶望した」「クルーゼ」も納得するものであったかは微妙ですけど。というか、クルーゼの壊れっぷりは、レイのように「個人」に立ち返れば治るような程度の浅いものとは思えないんですけどね。まさか、ムウのようにクルーゼも生きてた→劇場版『クルーゼの逆襲』とかやらんだろうなぁ…


■答えは?

そんな感じで、旧主人公たちには具体性がなく、デュランダル&クルーゼの理論には穴がある、という結末。三者の示した答えも、相対化された正義として、絶対善でも絶対悪でもない、あくまで一つの選択肢にすぎないわけで。じゃんけんのグーチョキパーみたいで、無敵の「ぴすとる(←小指と薬指を握りこんで他三本の指は伸ばすグーチョキパー同時出し)」なんて手はないんですよね。

その上で「何が正しいのか?」という問いへの答えをどう出すかは、議長サイドの正義を知り、旧主人公サイドの真実も実感したシンが、視聴者を象徴する形で、なにが正しいのかを自ら「選ぶ」べく、選択の前段階で終了。なにが正しいのか、自分はどうあるべきなのか、それを選ぶのは、あなただと。各視聴者だと。そんな形で、答えを出さずして幕を閉じました。答えを出すのは各視聴者なのだから、各視聴者を象徴するシンが何らかの答えを提示してしまっては問いかけにならない、ってことかと。


■ラストシーン

そうして問いかけの体裁を保った状態で、ED後にフリーダムがフライングな解提示。制作サイドが選んだ回答「例」にして、ある種の「釣り」です罠。これまで価値観を相対化してきたという「針」があって、その上でラクシズ絶対マンセーという「餌」がプレゼントfor視聴者。そこで「キラが正しいわけないやんけ」「でもデュランダルもアホ」「全員バカばっか」などと餌に食いつこうもんなら、まさに制作スタッフの「なにが正しいかは自分で考えれ」という思惑どおりの反応っしょ。

そう見た上で、匿名形式の掲示板なんかをチェックしてみると、ナイスなリアクションがそこかしこに見られるのですが、それまで価値観を相対化してきた「針」が用意された上での「餌」なんで、下手につつくと痛いことになるような。釣られたくないのなら、誰が正しいとか間違っているとかではなく、例えば「価値観の相対化が不十分」といったように、針が針としての機能を十分に果たしておらず釣りになってないことを指摘することが必要だと思うのですが、まぁ「キラが正しいわけないやんけ」「でもデュランダルもアホ」「全員バカばっか」といったリアクションが多数存在するところを見ると、そうは言えないっしょ。きっちり釣られているのですから。とてもじゃないけど「僕は君に生かされてる」とは言えない形式で〆ていたのには爆笑させてもらいましたけど、よほどバッシングが腹に据えかねたのかしらん。



といったところで、ストーリー的な部分についての内容整理は終わりということで。次は表現手法の整理。表現手法についてはストーリー部分ほど内容整理しなくて済むんで、内容整理と感想の同時並行ということで。




機動戦士ガンダムSEED DESTINY 演出系

■演出―回想について―

回想については批判意見が多いのですが、ぐらす的にはむしろOKというか。種の会話は、モノローグ部分を排除して、それを回想によってビジュアル的に表現する手法をとっているのですが、それにより、回想したシーンと回想されたシーンのつながりを視覚的に捉えることができるわけで。言葉数削減という脚本の基本にも適った手法ですし、シーン同士のつながりを考えるのも、種視聴の楽しみだったりして。なんというか、パズルを解いている感じ?

また、語りかけられた相手は、語っている相手が回想している脳内映像を見ることができないため、モノローグ抜きの結論を受けとめることしかできず、ゆえに理解しあえない→争いになるという、そんな物語上の意味も持っているでしょう。これが「自分の目線でしかものを考えない登場人物たち」という部分にかかっていて、良い感じに深みを持たせていましたね。

ただ、本来であればモノローグ部分で説明するはずの情報を回想から読み取らなければならないため、読み取りをミスると意味がわからなくなるというオマケ付き。読み取りをミスらんでも、回想シーンを通じて何を思っていたのかが断定できない時もあり、読み取れたとしても漠然としたイメージ優先の理解であったこともチラホラ。なんで、EDITEDや41話後半なんかの総集編を使って、キャラの内面描写にもう少しフォロー入れてほしかったっす。第1クールのまとめ感想でも同じこと言いましたけど。


■シーン構成―前作シーンの再現について―

これは演出というより構成かな(回想と似た使い方をしているので列記しました)。具体的には、セイバー発進(前作フリーダム発進)やステラ返還(前作ラクス変換)、フリーダム撃破(前作プロヴィデンス撃破)、連合の月基地攻略(前作ジェネシス攻略)といったところ。前作のシーンと同じシーン構成にすることで、そのシーンにおける登場人物の行動や考え方を前作シーンにおけるそれと対比させているわけですね。

また、10話でカガリとシンが同時に壁を叩いたシーンや、10〜12話の議長→アスラントークと42話のラクス→アスラントークのように、比較するのは前作シーンだけでなく、今作のシーン同士を比較することもあったりして。というか、種シリーズの作り自体、1stやZと導入口を似せつつ、異なる意味を持たせる形になっていたりして。そうして対比させることで、違った角度から物語を見ることができるんで、価値観のシャッフルに一役買っていたかな。

このあたり、比較されたシーン同士の意味の違いを考えたり、それによってキャラクターの心情を掘り下げたりと、物語を深めてくれ役割を担っていたのが興味深いところで。また、パズルのピースを埋めていくような頭を使うオモシロさもあったんで、回想と同じくお気に入りの表現手法でした。


■演出―ビジュアル表現について―

ビジュアル的なメタ演出としては、上で旧主人公サイドに関したビジュアル的なマイナス演出について触れましたけど、他にも、ステラたん逝去後のシンを炎(怒りの象徴)が彩っていたり、逆にステラたんはシンを求めるような姿勢で水底(炎の逆→ステラはシンのように復讐など望んでいない→まさに「あなた(シン)のことしか見えない」のをアピール→最終話を見るかぎりでは潜在的にはシンもそれはわかっていたっぽいですけどね)へと沈んでいったり。それを示すような形で、レクイエム破壊後に宙へと立ち昇った光も、オーブを討つのではなく平和に暮らすことこそが、死んだ者たちが望んだ本当の「鎮魂歌」であることをアピっていたり。

シン&キラ&アスランのすれ違いや議長とタリアの別れ、シン→ネオのステラたん譲渡といった相互不理解シーンでは一貫して夕夜シチュエーションを使っていたと思えば、40話のアカツキ発進や45話の真AA発進では朝昼シチュエーションを使うといった具合に、全体を通して一貫性を持たせた演出も物語に彩を添えていたかと。その点、ネオ&マリューのハグシーンも夕焼けシチュだったのに、その後のネオが無事に生き延びてしまったのは、演出的に見て少し残念だったりして。ネオ物語は全体的に省略された気配を感じさせる終わり方だったので、構想上はネオたん死亡予定だったんじゃないかな〜とか思っているんですけどね。

また、アスランとカガリの関係で「指輪」がポイントになっていたり、価値観のシャッフルにおいて「勲章」が意味を持っていたりと、物に意味をこめる表現も興味深かったっす。種の伝統(?)として、個人名に意味を持たせているシーンも散見(「アスラン・ザラ、ジャスティス、出る!」「ギルバート…」など)。主要MSのネーミングも、インパルス(衝撃、衝動)、デスティニー(与えられた定めを自ら切り開いた先に待つ運命)、ストライクフリーダム(ストライクという想いとフリーダムという力)、インフィニットジャスティス(それぞれの人が選択する無限にある正義)、アカツキ(ネガな夜の終了とポジな朝の到来)と、各パイロットの物語に沿ったネーミングが多かったかな。レジェンドは今一つ???でしたけど。

回想やシーン再現もそうですが、総じて直接的な言葉を使わずに描写することにこだわり、視聴者に「考える」ことを求めるのがDESTINYの表現手法だったと思うのですが、その点、含意を考えながら物語を追いかけていくのが毎週の楽しみでした。各視聴者によって感じるイメージは千差万別なんで、答えが示されない分、各視聴者なりの受けとめ方ができる懐の深さも良かったかと(宮崎アニメっぽさが漂うような)。現在放送中の『エウレカセブン』や富野ガンダムなんかでは、なにかにつけて伝えたい事柄を言葉で説明してしまうことがありますけど(エウレカは他の表現も多用していますけどね)、それはそれで「わかりやすい」というメリットがありつつも、説明調のわざとらしい台詞回しに見えてしまうこともあるんで、個人的には種タイプの台詞回しの方が好みかな。友だちの女の子で「ハチクロ(漫画のほう)は文字が多くて受けつけない」って人もいるんで、素軽く読み進める分にはビジュアルやイメージ(光の加減や音楽、キャラの表情など)を中心に表現した方が好まれるのかもしれませんね。


■戦闘シーン

基本的には、メカニックな重量感やシーンあたりの情報量をカットした派手&素軽いバトルにすることで、ライトな視聴者を狙ってきた印象が強かったかな。45話のように状況に応じた作戦を立案して行動することもあるのですが、作戦を実行するMSが雑魚MSとは一線を画すスーパーロボットなので、作戦自体が必要なかったりして。作戦立案シーンはハッタリエンタメ用のギミックと見たほうが良さそうです。犬&海&MA&換装&合体といったMSギミックも、実効性はあまりなく、ギミックっぽさを感じさせるハッタリ要素に重きが置かれていたようですしね(+プラモ販促)。とりあえず見た目派手にクルックル回ってビーム撃っていればOK、みたいな、そういう意味で、ライト視聴者向けの大味バトルなのは見え見えなんで、そう割りきって気軽に楽しんでいました。というか、DESTINYの戦闘は、人物関係の整理&展開&決着の場に使われていたんで、そういった物語性を追いかける楽しみ方をしていました。

ただ、使いまわしに関しては、もう少しどうにかならんもんかと。セイバー発進やフリーダム撃破のように、使いまわすことに意味を持たせたシーンもありますし、女子幼小中学生を中心に『プリキュア』が人気であるところからして、ライト視聴者はそこまで使いまわしを気にしていないってのもわかるのですが、それでも…ねぇ。もうちょっと…こう…。それが残念だったかと。


■主題歌

・ignited:
   誰もが堕ちてく 願いを求めすぎて 真実が堕ちていく場所を捜してる
・Reason:
   それぞれの夢を叶えて まためぐり逢う時 偶然は運命になる
・PRIDE:
   儚く散った光が 僕らを今呼び覚ます 悲しみは音を立て 消える あの場所から
・Life goes on:
   Life goes on 守りたくて 心は砕かれて 本当の哀しみを知った瞳は 愛に溢れて
・僕たちの行方:
   僕たちは迷いながら たどり着く場所を捜し続け
・I wanna go to a place:
   いつでも思い出すけど もうどこにも戻れない
・Wings of words:
   二人じゃないと開かない 扉があるこの世界で
・君は僕に似ている:
   僕は君に生かされてる

すべてを終わってから振り返ると、どれもこれもがDESTINYの一側面を見事に表現していましたね。上に挙げたのは一部の歌詞ですけど、『ignited』『Reason』『Life goes on』あたりは、どこを切り取ってもDESTINYって感じだったかな。

個人的に、主題歌を道標にしてDESTINYという物語を追いかけてきたもんで、しかもそれが理解の助けになってくれたもんで、主題歌として、どれもこれも良かったっす。楽曲としても含めて考えれば『ignited』が熱かったのですが、さりげにビビったのは『PRIDE』だったりして。楽曲としては???ですけど、主題歌として、まさか半年以上たってから物語にクリーンヒットするとは思わんかった。

ただ、主題歌について総じて思うのですが、シンの解を示さなかった本編とは異なり、主題歌レベルでは解を示しているんですよね。それが、主題歌として見た時に、チクっと刺さる棘に感じられる時もあったりして。とはいえ、楽曲としてみると帰結をしっかり示す意味はあるので、その辺がまた難しいバランスの問題なんですけど。作詞家も大変だわさ。



そんな感じで、表現手法+αについての内容整理&感想は終了。全体的にはかなり好みのスタイルだったかな。んじゃ次は、批判をいくつか。




機動戦士ガンダムSEED DESTINY 批判

■批判その1―政治的なストッパーが存在しない

解決策を直接的に提示されることで得られるカタルシスはないものの、常に「自分で考えろ」と言い続けたDESTINYらしい終わり方として、また、前作ラストの「生きるほうが戦いだ」や29話の「血の道」発言を引っ張った終わり方として、納得できるっちゃ納得できますけど ― やっぱ気になるんですよね。

互いの正義が衝突して争いになったとしても、本来であれば、政治的なストッパーが働いて戦争を回避するシステムが機能し、かきゅー的速やかに収束に向かうでしょ。また、ロゴスのような陰謀組織(?)が存在したとしても、それが直接的に軍に命令を下すなんて事は…(シビリアンコントロールが基本なんで)。

要するに、種シリーズにおいて互いの正義が衝突して争いになるというのは、作中で示された「人間が愚かだから」「戦争を煽る集団が存在しているから」というのが理由なのではなく、単に種世界の政治システムに穴が多すぎるのが問題なんじゃないかと。デュランダル議長も、Dプランなんてものを実行せんでも、普通に政治システムを整備すればよかっただけのような。

といった感じで、このあたりが種シリーズの最も大きな問題点じゃなかろーかと思うんですよ。もうちょいマシな政治システムを用意せんことには、根本にある「人間が悪い」という主張の説得力が弱くなってしまい、単に作品世界の「設定が悪い」と感じさせてしまうんで。まぁ、別に種に限った話じゃないですけどね。政治的に無策なのは、これまでのガンダムでも大差ないでしょう。どこぞのSF小説でも「天地人VSあくはと」というトンデモ論争が描かれていましたし。


■批判その2―勧善懲悪と非勧善懲悪のバランスが悪い

フリーダム撃破時にキラがほとんど傷を負っていなかったり、キラ他が自らの罪について自覚するシーンが少なかったりと、旧主人公サイドの「正義」がプラス補正を受けていた感が強かったかと。逆に、40話でシンが勲章授与する際の背景音が妙に暗〜く怪し〜い曲調だったり、49〜50話のレイの告白シーンで、シンがレイや議長に思考誘導されているニュアンスを出しすぎていたりと、議長サイドの「正義」が正当性を高める場面でマイナス補正を受けていた感が強かったですね。

SEEDの場合、不殺を願ったキラの行動も結局は実らずにザフト兵を死なせてしまったり(前作35話)、相互理解の可能性を説いたキラも結局は武力によってクルーゼを討つことしかできなかったり(前作最終話)といったように、基本的には「現実は理想どおりにはいかないよ」と描きつつ、イメージ的には、不殺狙いだったり理想マンセーだったりとヒーロー系のニュアンスを感じさせる作りになっているわけで。カテゴリーの無化を是とする理想重視な一元的価値観をベースに敷き、その価値観を主人公たちに選択させつつ、そんな主人公たちの行動をプラスベクトルに演出したため(第3クール中盤以降ですけど)、最終的にはそれが叶わないという現実を描きつつも、価値観の是非とイメージの明暗が噛みあって、全体的にはバランスが取れていた。といった感じじゃないかと。

けれど、DESTINYの場合は、価値観をシャッフルして絶対的な正義も悪もないと示しながら、その一方で、旧主人公サイドの言動をプラスベクトルに、議長サイドの言動をマイナスベクトルに演出したため、価値観の是非とイメージの明暗が噛みあわず、全体的なバランスが崩れた。と感じるんですよね。

SEEDシリーズのコンセプトとして「ライトエンタメとして」という前提でアニメを作っている向きを感じますし、そのためにライト視聴者でも楽しめるような勧善懲悪なノリを持たせたかったのでしょうが、そんなノリと、価値観の相対化という「非勧善懲悪」な骨格部分の相性があまりにも悪く、結果として中途半端な出来になってしまったんじゃないかなぁ。ライト視聴者でも楽しめるように勧善懲悪のノリを持たせつつ、骨格部分での非勧善懲悪性をきちんと固める、というのは簡単ではありませんけど、そのあたりでバランスを取ることができれば…と思わせる出来だった。というのが個人的に惜しいと思うところかな。ただ、そういったチャレンジなくして新しい創作物は生まれないので、その点では高く評価していますけどね。


■批判その3―価値観を相対化されるファクターが多い

上の「相対化された価値観」の項でも触れましたけど、具体的に相対化されたファクターとしては「真と偽」「想いと力(役割)」「自立と依存」「意志と諦観」「言葉」「技術」といったところが挙げられますけど、ちょっくら多すぎじゃないかい?

それぞれのファクターについて、その都度「アレも正しいけど、でも正しくなくて、コレも正しいけど、でも正しくなくて」なんて描いてしまうと、見ている方としては整理しきれなくなることも間々あって。結果として、相対化されているというよりも、単に「矛盾している」という印象だけを与えかねないわけで。ぶっちゃけ、わかりづらい。先程「ノリと骨格の相性が悪い」と言いましたけど、価値観の相対化という骨格部分がわかりづらいため、余計に勧善懲悪なノリ部分だけが際立ってしまい、さらにアンバランスになるんじゃないかと。このあたりが真っ当な視聴を妨げた原因なんじゃないかな〜とか思っているのですが、どんなもんざんしょ。



批判らしい批判といえばそんなもんかな。あとは、単に各視聴者の趣味嗜好にあうかあわないかの問題か、それほど気にならない些細な欠点か。整理するのがメンドクサイんで、すっぱりカット。んで、まとめ感想いきま〜す。




機動戦士ガンダムSEED DESTINY 感想

■まとめ感想

どうやって二つの正義の衝突に答えを出すのか。それを追っかけて見ていたのが、ぐらすの種視聴のメインでした。最初の頃は、SEEDの流れを引っぱってきて「カテゴリー無化」「想いだけでも力だけでも」といった着地点を示すんじゃないかな〜とか思っていたり(旧主人公マンセーな終わり方ですね)、第2クールの頃には、二つの正義の共通項を鍵として相互理解へと至るのかな〜とか思っていたり。

結局は「自分で選べ」といった形に落ち着きましたが、そうして先を予想しながら、回想やビジュアル的な演出の意味を考えたり、SEEDのフレイ台詞「私の思いがあなたを守るわ(13話)」→「本当の私の思いがあなたを守るわ(最終話)」のような長期処理を期待したりと(今回も8話のマリュー&タリアの語りが49話で回想されたり、序盤の議長→アスラン説得が42話のラクス→アスラン尋問?に重ねられていたり)、話にこめられた含意やテーマ&表現上の伏線を読み解くのが、個人的にDESTINYを面白いと感じたポイントでしたね。と同時に、戦闘シーンやムウ強制復活のように、素軽いエンタメとして(ある意味)テキトーに作られた部分もあるんで、週一の娯楽として軽く見られる気楽さもお気に入りでした。その点、毎週の引きの巧みさや、主題歌&挿入歌の良さに助けられた部分が大きいんじゃないかと自己分析してみたりして。あと、こうして感想まとめていると、そうすることでより深く理解できる部分もあって、軽く手間がかかりつつも結構好きな作業だったかな。


■ちょっと脇道

と、それに関連して思うのは、SEED系って「いやなら見るな」「見なきゃ何も言えん」的な対立?の火種にもなっていたと思うのですが、要は、何を楽しみに見ているかの問題じゃないかと。話がつまらないのに見ている、といった人もいたと思うのですが、別に見ることを強制されているのではなく、当然、見ないという選択肢もあるわけで。にもかかわらず見るということは、つまらない話を見ることで被るデメリットよりも、見ることで得られるメリット(例えば、批判が楽しい、友達との会話のネタになるんで押さえておきたい、ガノタとして全てのガンダムについて知りたい、などなど)の方が大きい、ということに他ならないんじゃないかなぁ。言い換えるなら、その人にとっては、アニメを見ることに対して、内容を楽しむために見るという以上に、批判や話題づくり、知識収集をすることに重きを置いているんじゃないかなぁ。もちろん、できれば内容も楽しみたいんでしょうけどね。

ここでちょっくら脱線。ぐらすの実家に、ぐらすが子どもの頃に習っていたピアノを置いてあるのですが、そのピアノは、音を奏でるという目的ではなく、ぐらすの両親にとって我が子を想いおこす品であったり、または部屋を彩る調度品であったり、そういった目的で部屋に置かれているんですよね。なんで、そのピアノは音の良し悪しを問われることはなく、調律も必要ないわけです。

と、関係あるようなないような話に逸れましたけど、本題に戻して。批判することの面白さ、会話のネタになるという必要性、知識収集の欲求。そういった価値が、話の面白さという価値よりも上位に位置するからこそ、その人は種を見てしまう。ガンダムを見られるという価値が、話の面白さという価値や、ガンダムとしての面白さという価値を上回っている。だからこそ、その人は種を見てしまう。そういうことだと思うのですが、ならば、その人にとって重要なのは「批判する楽しさがあるか否か」「会話のネタになるか否か」「知識収集の意味があるか否か」「ガンダムであるか否か」といった価値基準であり、逆に「話がおもしろいか」という価値基準は、前述した価値基準よりも低く位置するんじゃないかなぁ。だとするなら、そういった価値観を持っている人は、なによりも先に「批判する楽しさがあるか否か」「会話のネタになるか否か」「知識収集の意味があるか否か」「ガンダムであるか否か」といった価値基準に基づいて評価した上で、刺身のツマ的に「話の面白さ」について評価すべきじゃないのかなぁと思うのですが、ど〜でしょ〜か?

種感想というより種評価感想ですし、漠然と思ったところを言葉にしてみたものなので、まだうまくまとまってもいないのですが、そんなことを感じる今日この頃。


■寓話として思うところは

前作は「カテゴリー依存はイクナイ」「相互理解が大切」といったところでしたけど、今作は「自分で考えて選びとれ、そして、選択を貫いて戦え」というのが、最終的なメッセージだったかな。もちろん、前作の「カテゴリー無化」「相互理解」も下敷きとした上でですし、もちろんもちろん、戦え=殺しあえ、戦争しろ、なんて物騒な代物ではありませんけど。

また、前作の場合は、ベースとなった1stが「わかりあい」というファクターをNTという設定に依拠していたのに対し、SEEDでは「相手と同じ体験を踏まえること、もしくは相手の置かれている状況を想像することが、相互理解には必要」という形で、一歩踏みこんだ具体性を持たせていたんですよね(28話のキラとフレイの会話しかり、互いに友人を殺してしまった上にマジ殺りあいを演じたキラ&アスランの関係しかり、50話のフレイ語りしかり)。

で、DESTINYの場合。よくZは「現実認知」の大切さを説いているという話を聞くのですが、上の「もう一つの文脈」の項で軽く触れたように、DESTINYでは、自分の視点、自分の解釈、自分の正義を絶対視してしまう登場人物たちの姿が描かれているわけで。これでもか!と言わんばかりに鬼の現実をテンコ盛りした上で「アニメなんかで現実語れるか!」と逆ギレかましたのがZでしたけど、そんなZを原型としている物語としてDESTINYを見てみると、現実を見ずに自分真実ばかりを見ている各キャラの姿が否定的に描かれ、そういうのはイクナイヨ〜と言わんばかりに晒されていたりして。これ、1stを模したSEEDが「わかりあい」に具体的に踏み込んだように、Zを模したDESTINYは「現実認知」に具体的に踏み込む形になっているんですよね。意識的なのか無意識なのかはわかりませんが、こういった視点でDESTINYを見てもオモシロイんじゃないかな〜。



といった感じで、長くなりましたけど、全体まとめ感想+内容整理は終わりかな。字数カウントすると1万7オーバー。毎回感想とあわせるとちょっとした小説なみの容量やっちゅうねん。書き始めた当初は1〜2日で終わると思っていたのですが、実際には1週間以上かかりましたとさ。そんなものを最後まで読んでくださった方、乙カレーでございます。この程度のボリューム、しかも元になる題材が存在する感想ですら、話をまとめるのは大変だったりして。いわんや本編をば。監督をはじめ制作スタッフの皆様、乙カレー大盛りです。

あとはDVD最終巻の追加映像待ちですが、そっちは消滅しそうだとの噂もチラホラ。まぁ、なくとも話は閉じているのですが、単なる好奇心として知りたいような知りたくないような。ま、実際になくなるかどうかはわかりませんが、2月には結論が出るのですから、それまでだめもとでノンビリ待ってみます。あとはボチボチ、各話感想改訂やらキャラ考察やら気になる小ネタやら、気が向いた時にでも書き突ついていこうと思っとりますです。とりあえずは、お気に入りシーンセレクトでも。あと、時間見つけてもう一回見直してみようと計画中。できるかどうかは微妙ですけどね〜

そんなこんなで、長らくお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。ご意見ある方もいらっしゃるとは思いますが、基本的に「仕様」に書いたようなニュアンスで読書感想文ってみたものなんで、それをご理解いただいた上でボテクリこかしてくだされば。ではでは〜

※ 寝不足脳でチェックしたんで、論理の破綻とかあるかもです。また改めてチェックしてみますが、とりあえずの「仮」ということで。また、追記する項目もあるかもしれないんで、後日チョコチョコ手入れする可能性も。ご了承くださいませ。





感 想 一 覧

機動戦士ガンダムSEED DESTINY

 まとめ 内容整理
 まとめ 演出系
 まとめ 批判
 まとめ 感想



 SEED-DESTINY 1クール分
 SEED-DESTINY 2クール分
 SEED-DESTINY 3クール分
 SEED-DESTINY 4クール分



 Phase-01 怒れる瞳
 Phase-02 戦いを呼ぶもの
 Phase-03 予兆の砲火
 Phase-04 星屑の戦場
 Phase-05 癒えぬ傷跡
 Phase-06 世界の終わる時
 Phase-07 混迷の大地
 Phase-08 ジャンクション
 Phase-09 驕れる牙
 Phase-10 父の呪縛
 Phase-11 選びし道
 Phase-12 血に染まる海
 Phase-13 よみがえる翼

 Phase-14 明日への出航
 Phase-15 戦場への帰還
 Phase-16 インド洋の死闘
 Phase-17 戦士の条件
 Phase-18 ローエングリンを討て
 Phase-19 見えない真実
 Phase-20 PAST
 Phase-21 さまよう眸
 Phase-22 蒼天の剣
 Phase-23 戦火の陰
 Phase-24 すれ違う視線

 Phase-25 罪の在処
 Phase-26 約束
 Phase-27 届かぬ想い
 Phase-28 残る命散る命
 Phase-29 Fates
 Phase-30 刹那の夢
 Phase-31 明けない夜
 Phase-32 ステラ
 Phase-33 示される世界
 Phase-34 悪夢
 Phase-35 混沌の先に
 Phase-36 アスラン脱走
 Phase-37 雷鳴の闇

 Phase-38 新しき旗
 Phase-39 天空のキラ
 Phase-40 黄金の意志
 Phase-41 リフレイン
 Phase-42 自由と正義と
 Phase-43 反撃の声
 Phase-44 二人のラクス
 Phase-45 変革の序曲
 Phase-46 真実の歌
 Phase-47 ミーアの日記 全文転載
 Phase-47 ミーア
 Phase-48 新世界へ
 Phase-49 レイ
 Phase-50 最後の力

 Final-Plus 最後の力